随想 第109回 写せなかった1枚

5年前に公開された映画「お元気ですか?」を見て命の大切さを再認識しました。自動車事故で夫と幼い娘を失った悲しさから一人旅へ出た女性が、最後に話したい10人へ順番に電話をかけます。

勤務していた職場の女性経営者、学生時代の親友と恩師など9人と話した後、夜の樹海へ。そして持参した睡眠薬に手を出そうとして10人目がまだなのに気付きます。10人目は未定でした。誰でもいい、まだ話したことのない人と最後に話したかったのです。無作為にダイヤルして繋がったのは男性でした。

相手は知らない人からの突然の電話に驚きますが彼女の異常な事態を察知して「勝手なことを言っているなあ、ひと晩だけ思いとどまれないか?生きる意味を教えるから明日家へ来いよ」と言って電話は切れます。

翌朝、気が進まないものの何となく最後の人には会っておかねばならないと思いケータイに残っている住所へ出向きます。奥さんに部屋へ案内されて主人であるその男性に会いますが、彼は寝たきりの重症者で鼻からのチューブで栄養を取っているのでした。昨夜は元気で、こんな電話があったと奥さんに話していたとのこと。今朝はまだ眠ったままですと聞き、その闘病の姿を見てあふれる涙を止めることができませんでした。

生きる勇気をもらった彼女は帰途、以前の勤務先に電話をして復帰したいと申し出ます。ヒトミにも少しですが輝きが戻っていました。

ここからは私の体験談です。

若い頃に清水寺の全景を撮ろうと秀吉が眠る豊国廟の阿弥陀ヶ峰を目指しました。

山としての高さはそれほどではありませんがこの石段は約500段あります。重い機材を持って何とか登り切りました。山頂から遠望する清水寺は絶景です。

      

大型カメラと三脚をセットしようとしたとき、画面左の藪の中から人の声が聞こえるのに気付きました。しかも苦しそうな声なのです。近づいて見ると若い女性が横たわっており、そばには空になった鎮痛剤の箱と何かを書いた便箋が・・。顔は土気色です。

もう撮影どころではありません。ケータイがない時代だったのであわてて石段を駆け下りました。神社の人に事情を話し、救急車を呼んでもらいました。そして警察官の事情聴取もあり、住所と名前を申し出て自宅に戻りました。

それから数日後、本人のご両親が拙宅まで挨拶に来られて亡くなったことを知らされました。助かってほしいとの思いを断たれて言葉に窮したとき次のように話されたのです。

「あなたが娘を早く発見してくれたおかげで一度だけ息を吹き返して、ひと言でしたが話すことができました」と言って深々と頭を下げられました。それを聞いて少しは心が休まりました。

でも薬を飲む前に10人目のだれかに電話をしていたらこの映画の主人公のように生きようとしたかもしれないと思うと今さらながら無念の思いが込み上げてきました。

このようなことがあったのでその後、豊国廟の阿弥陀ヶ峰へは行っていません。ところが最近、事情を知らない娘が眺めの良いところへ行ってきたよと現場の写真を送信してきたので今回借用させてもらった次第です。

この絶景を見るとやはりもう一度行こうかと思ったのですが、あの日のことや長い石段を考えると止めることにしました。