昨年に続いての「アメリカ大西部撮影ツアー」から全員無事に帰国しました。昨年とまったく同じコースではあまりにも芸がないので今年はまずメキシコに近いツーソンへ。ここでカクタス(サボテン)を撮影してからセドナを経由してハイライトのモニュメントバレイとグランドキャニオン・ラスベガスと回りました。
3年連続してアメリカ西部に付き合ってくれたTさんがもっともハリきったのはオールドツーソンスタジオ。西部開拓時代を再現したオープンスタジオで街中をカウボーイがウロウロしています。当時のバーのカウンターでバーボンを飲むこともでき、Tさん同様西部劇を見て大きくなった私もまるで夢を見ているよう…でした。
さて帰国してサヨナラでは私の仕事はまだ終わっていません。旅行中に皆さんが同じ条件下でどのような写真を撮ったか、を見届けねばならないからです。そのための研究会がまもなく開催されますが参加者は作品を持ってもう一度集まり、お互いの作品を見せ合うことで刺激を受けたり新たな発見をしたりします。
写真教室でもこれと同じことをするわけです。月に一回、同一条件下で撮影したものを次回の教室に持ち寄って全員で見せ合って検討します。同じ時に撮ったんだから大して違わないだろうって?とんでもありません。30人(1クラスの平均人数)ともそれぞれ異なった写真になっているのです。そこが写真の奥深さ。そうでなければ30年も続けていませんヨ。
でも考えれば不思議ですネ。同じカメラとレンズ、しかもフィルムまで同じなのに出来上がった写真は違う…。なぜなのでしょうか?理由はカンタン。シャッターを押す人間が異なるからです。30人それぞれが感じたものにカメラを向けるのだからこれは当然だと言えるかも知れません。では同じものを撮ったらどうなるか…。それでも全員違った写真となります。その「物」は同じでもそれを見る「眼」は全員異なるのです。たとえばコスモスの群生にピントを合わせながらある人は好きな画家の絵に負けないような力強い表現を試みるでしょうし、ある人は子供の頃に見た情景を思い出してノスタルジックに表現するかもしれません。
カメラやフィルムの進歩でよく「押せば写る」といわれますがこの言葉には撮影者の感情が入っておらず、あまり好きになれません。むしろ「押さねば写らない」ことを肝に銘じるべきでしょう。
最近ある人が「やはり写真教室って必要なんだなぁ」というのでその理由を聞くと、撮影に行きたい時に自由に行こうと思って教室を辞めたがイザとなるとなかなか行けない。やはり決められた場所へ連れて行かれないとダメだ、とのこと。人間ってヨワイものですねぇ。
でもこれは講師とて同じこと。写真講座を受け持ってから好むと好まざるにかかわらず、また気が向こうがそうでなかろうが決められた現地へ出向いて受講生の皆さんとの一本勝負。その場で一生懸命「自分の写真」を撮ろうと努力します。これが結構勉強になるんですヨ。そして次の研究会でほかの人の写真を見て「あぁ、自分はまだまだダメだ」とため息をついたり、逆に絶賛の声を浴びたり…。こうしてメキメキと上達していくのです。
最初に持った教室が現在4年目で、今までは無我夢中で突っ走ってきましたがそろそろマンネリ化してきたのか、チラチラ不満の声が聞こえ出しました。お互いに話し合って解決していくしかありません。まさに継続はチカラなり!続けるってタイヘンな努力が必要なんですネ。
私にとって「写真教室」は写真だけではなく「何もかも学べる教室」に変わってきたようです。
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