市内の木々が色付き始めた。今年は猛暑で心配したが、この分だと少し遅れるだけでそこそこの紅葉が見られそうである。
さて、「写真」が発明されておよそ170年になる。当初は写真術と呼ばれ、カメラマンは写真技師であり、技術の習得がすべてであった。
そして小型のライカカメラが誕生し、八十年が過ぎた。その後、カラーフィルムが登場し、オートフォーカスや自動露出カメラが発売されてだれでも簡単に写せるようになった。それでもフィルムを使用している限りはまだ写真愛好家の楽しみであった。
ところがデジタルカメラとカメラ付携帯電話の普及で裾野が一気に広がった。特にケータイカメラはその場からメールで送信できる魅力も加わり、若い人を中心に急激に伸びた。
上の写真は京都市右京区の祇王寺で撮影したものである。観光客がケータイカメラを構えているところをスナップした。カメラを忘れたとしてもケータイがあれば何とか「写る」のである。
ケータイカメラもデジタルカメラに近い性能を持つ機種が出ている。しかし私はケータイカメラを使った撮影はめったにしない。理由の第一は、盗撮などの犯罪行為を防止するためのメロディー音が好きになれないこと。第二はシャッターボタンの形状と位置が悪く、渾身の力を込めて押すことができないこと。そして第三にプリントの仕上がりが「カメラ」には及ばないことである。
ケータイでも「写る」が、やはり「写す」のはカメラがいい。たとえコンパクトカメラでも「写す」ための道具として作られている。作品作りをめざす我々は写そうと意気込んで撮らなければダメだ。「写っていた」では作者不在ではないか。
これからは「写る」と「写す」の違いを考えながら撮影するようにしましょう。
(京都新聞 2007年11月14日掲載)
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