佐渡金銀山は約400年間、国内最大の金銀山として78トンの金と2,330トンの銀を産出しました。江戸時代には徳川幕府の管理下で、採掘から小判製造に至る一連の作業が行われ、明治時代以降は、西洋から最新の鉱山技術が導入されて日本の近代化に大きく貢献したのです。
2022年には日本の世界文化遺産候補としてユネスコへ推薦され、現在は江戸時代の伝統的手工業と金生産システムを示す稀有な産業遺産として2024年の世界遺産登録を目指しています。
そこで登録前にこの目で見ておこうと本年4月末に取材に出かけました。
まずは当時の採掘の様子が見られる「宗太夫坑」へ。
ここは江戸時代を代表する採掘方法が残された坑道です。次のような階段を上り下りして進みますが非常に寒いです。
「宗太夫」の名称は、当時開削を受け持った人物の名で、江戸時代初期に開発され、地中深く掘りめぐらされた坑道に、動く人形により採掘作業が忠実に再現されています。
開山から90年足らずで、坑道は海水面以下までに達した為、この坑道では常に排水作業が必要であり、水との闘いの連続でした。
真ん中の3本の筒は「水上輪」と呼ばれる木製の機械で排水作業を行なっています。
入ってしばらくは寒さに驚きましたが、次の褌(ふんどし)と汗を見れば坑道での採掘作業がいかに大変なものだったかが伝わってきます。
次は「やわらぎ」という儀式が紹介されていました。「やわらぎ」とは金堀の労働者たちが歌った唄で、山の神様の気持ちがやわらいで固い岩が柔らかくなりますようにと願う儀式です。
宗太夫坑を出ると展示室があり、そこに次のような坑道の模型が展示されていました。逆光に浮かぶ労働者のシルエットが印象的で、思わずシャッターを切りました。
次は同じ展示室にある「金塊の取り出し体験コーナー」です。
この体験は片手が入る大きさの穴から重さ12.5キロの金塊(時価約1億5000万円)を30秒以内に取り出すことができれば記念に金箔カードがもらえるという人気のコーナーです。
試しに挑戦しましたが重くてまったく持ち上がりません。ところがそのあと挑戦した若い方が持ち上げたので写真を撮らせていただきました。
その方も穴から取り出すのは無理だったのですが、この3日後に防犯上からこの体験が中止になったと読売新聞が報じていました。実に貴重な体験となりました。
次に向かったのが「道遊坑」です。
「道遊坑」は、明治32(1899)年に開削され、佐渡金山の近代化に大きく貢献した機械掘り坑道です。
坑道を含め、トロッコ、機械工場、粗砕場など多くの設備が操業当時の姿のままで残されています。
宗太夫坑の採掘方法とは打って変わり、採掘の近代化を見ることができます。
そして道遊坑から外に出ると「道遊の割戸」が目の前に現れます。
これは山がV字に割れた露頭掘り跡のことで、金脈を求めて鉱石を掘り続けた結果、山が二つに割れてしまったのです。山頂部の割れ目は幅30m、深さ74mに及ぶといいます。
次の「北沢浮遊選鉱場跡」は、もともとは銅の製造過程で行なわれていた技術であった浮遊選鉱法を金銀の採取に応用し、日本で初めて実用化に成功したところです。戦時下の大増産計画によって大規模な設備投資がされ、1ヶ月で50,000トン以上の鉱石を処理できることから「東洋一」とうたわれました。
ツタに覆われた遺跡がまるでラピュタみたいと話題になっています。
★世界文化遺産への登録に隣国がまた反対★
冒頭に書いた通り、「佐渡の金山」では伝統的手工業によって金生産が行なわれました。高純度の金を産む生産技術とそれを可能とする高度に専門化された生産体制が整備され、世界でも類を見ない大規模な金生産システムが長期間にわたって継続していたのです。
17世紀には世界最大級の産出量を上げ、江戸幕府の財政やオランダを通じて世界貿易にも貢献しました。
現在、佐渡には金の生産技術に関わる採掘・選鉱などの遺跡、生産体制に関わる奉行所跡や鉱山集落跡などが残り、鉱山の全体像を理解することができます。
こうした遺跡が良好な状態で残るのは世界的に見ても佐渡だけであり、そこに世界遺産登録の意義があると考えて申請したのですが、またまた隣国から横やりが入りました。
2015年に日本と隣国の外相会談が開かれ、日本が隣国の「百済歴史遺跡地区」を世界文化遺産に登録することを支援する代わりに、隣国も「明治日本の産業革命遺産」の登録を支援することで合意したのですが、隣国の登録が採決された翌日、隣国は合意を反故にして日本の登録に反対を表明したのです。
当時の外相は岸田現首相でした。
隣国による妨害は、長崎の軍艦島申請時にもニセの徴用工写真を使った資料を国連関係者に送り付けるなど目に余るものがありました。
その隣国人を立ち入り禁止にした対馬の和多都美(わたづみ)神社のように毅然とした態度で臨むよう岸田首相にお願いしたいものです。
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