<命拾い>
さぁ、西部はユタ州の北方にあるソルトレイクシティまでひとッ跳び…。初めての大西部めぐりはこのユタ州からアリゾナ州、ネヴァダ州を廻って最終の目的地のサンフランシスコへと向かう。
さすがにこちらには王さんの知り合いもいないようでずっと一緒に付き合ってくれるとのこと。彼の心強さを次の言葉で感じた。 「これからシスコまで走る車を買いましょう。」 「エッ、借りるのと違うの?」 「心配なく、中古車ですよ。」
なるほど、レンタカーで乗り捨て(ここで借りてシスコで返す)もできるが費用がかなり高くなる。安い中古車を買ってシスコで僕と別れてから彼の住むバンクーバーまでそれで帰るというのだ。これはグッドアイデア!である。
「でもこの車で大丈夫?」 年代物のシボレーで図体はやたらとデカイが塗装はハゲて車体の左側が沈み込んでいる。つまり路面に平行でなく左に傾いているのだ。クルマ屋のオヤジはニコニコして 「大丈夫だよ…心配なら走ってみな。」
早速近くを走ってきた王さんが 「大丈夫だ。」 というので少し不安はあったが370ドルという価格も魅力で買うことにした。一人ならとてもできないことだが王さんがいれば何とかなるさ…。
さて、広大な大西部のハイウエーを爽やかな秋風を受けながら快適なドライブ。王さんのリクエストでかぐや姫の「神田川」を歌う。「若かったあの頃、何も恐くなかった…」の個所に来ると彼も声を大きくして一緒に歌う。この歌に何か思い出があるのだろう。
その時だった。僕らのクルマを追い抜こうと並んだ車のドライバーが何か叫んでいるのだ。僕は全く聞き取れなかったが王さんの顔色が変わった。「オイルがだだ洩れだって!」
すぐ路肩に停車して降りてみるとなるほど洩れている。「あぁ困った、どうしよう…。ニコニコしていたあのオヤジめ!」ヒステリックになっている僕とは対照的に彼は冷静に 「とりあえず次のガスステーション(スタンド)までゆっくり行きましょう。」 オイルメーターも故障しているらしく残量がわからない。煙が出たらオシマイ、っていうことか…。
幸いガスステーションまでたどり着いた。調べてもらったらオイルはほとんどカラだった。そして言われた。「あんたたちはラッキーだよ、これが8月のデスバレー(死の谷と呼ばれるネヴァダ州の砂漠)だったら天国行きだったぜ。」
<ついに衝突!?>
オイル洩れのシボレーは売り払われずに続投となる。「だって安いオイルをどんどん入れてやればちゃんと走るのですから…。」 さすがアメリカ的発想だ。日本だとそうはいかない。以降、車内に僕らの飲むコーラと同量のオイルを確保して走り続けた。
子供の頃から憧れだった大西部…「駅馬車」のロケ地となったモニュメントバレィでは広大な風景に息を呑んだ。日の出・日の入りが特にいい。日の出は辛かったが眠い目をこすりながら何枚もシャッターを切った。
デスバレーで夕陽に輝く砂の風紋を撮影していた時のこと。刻一刻と表情を変える瞬間だけに神経がピリピリしていた。その時王さんが僕のそばに来て、レンズは何ミリを使っているのですか、とか向こうにもっと良いところがありますよなどと話しかける。こちらは返事などできる状態ではない。ところがなおも話しかけてくるのでついに 「うるさい!黙っててくれ!」 と怒鳴ってしまった。
これが二人が衝突したたった一度の瞬間だった。お互い性格が違うのだから無理もない。僕は感情をあらわに出す性格だ。彼は逆に知的な理論派であまり感情を出さない。ちなみに彼はその後ツアーコンダクターとして活躍した。それぞれの性格に合った職業に就いた、と言えようか。
その夜、乾杯をして仲直りしたのでご心配なく。
<監獄へブチ込んでやる!>
いよいよヨセミテ渓谷までやって来た。ここは荒野ではなく日本の信州のようなところである。アンセル・アダムスが撮影して有名になったハーフドーム(巨大な一枚岩で半分が切り取られた形状になっているためこう呼ばれる)が眼前に聳え立つ。これだけは観光写真だけではなく何とかして作品を作ろうと暮色まで粘った。この時の 「暮色のハーフドーム」 が帰国後、二科展に初出品し初入選する。
さぁ、最後の訪問地であるサンフランシスコに到着。ゴールデンゲイト・ブリッジを目の当りにした時、一人で日本からヨットでここまでやって来た堀江氏の感慨に思いをはせた。素晴らしい橋ではあるが撮影となると東側にあるベイ・ブリッジの方が絵になる。なぜならベイ・ブリッジとシスコのビル群とを同時に写し込めるからだ。観光写真の典型的なポイントである。
そのポイントはベイ・ブリッジの中ほどにあるトレイジャー島にあった。よくポスターや絵葉書で見るポイントなのに何の案内も展望台もない。おかしいなぁーと思いながらも三脚を立てて撮影の準備をした。その頃からパトカーが何度もやって来るので少し気にはなっていた。
待ちに待った暮色となった。空はブルーとなりビル群の明かりが輝き出す。夜景を写す最高に美しい時間だ。と、その時またパトカーがやって来てマイクで何かを言い始めた。意味のわからない僕はそのまま撮影を続行。マイクの語気が次第に荒くなっていくのがわかる。王さんが 「北奥さん、もうダメです。監獄へブチ込んでやる!と言っています!」
王さんの泣きそうな顔を見て 「とぼけて関西弁で返事してくれ!」 とは言えなかった。もう少し撮影したかったが檻の中の二人を想像するとあわててカメラを片付けクルマに飛び乗った。でもどうしてこんなに注意されるのだろう?鬼のような顔をした警官が先導するパトカーについてベイ・ブリッジの入口まで来た時そこに立っているサイン(標識)が目に止まった。 「 Army(軍用基地) 」
<別れ>
他にも有名なケーブルカーやフィッシャーマンズ・ウォーフ、チャイナタウンなどを撮影しているうちに次第に王さんとの別れの日が近づき今日はいよいよ最後の日である。カナダのカルガリーで出会ってから37日目になる。よくぞまぁ付き合ってくれたものだ。今夜は最後のディナーだから張り込もうとシスコでは最高級のホテルへ出かけた。二人ともカジュアルな服装だったが 「ノープロブレム!(どうぞ)」 さすがアメリカだ。
最上階にある展望レストランでワインで乾杯!お疲れ様…互いに労をねぎらう。彼と出会わなければもっと短期間のスケールの小さい旅で終わったであろう。そして何よりもどんな事態に遭遇してもあわてずに冷静に行動する彼を見て学んだことは多い。その後世界を一人で取材するのにどれほど役立ったことだろう。
翌朝、僕を空港まで送った後 「 じゃぁね!」 と固い握手をして今度はバンクーバーまで帰る彼のクルマを見送った。ボロボロのシボレーだったが半月間よく走ってくれた。左に傾いているのも変わっていない。そして僕の足元からズーと延びる一直線のオイルの跡も…。
<追想>
その後、お互いの家族とともにキャンピングカーでカナディアン・ロッキーをのんびり廻ったのをはじめ、彼が日本へ2回、私がカナダへ3回行き、親交を深めてきました。ところが5年前の1月突然奥様から、王さんが急病で入院しその後リハビリをしているとの手紙が届きました。驚いてお見舞いの花を送ったところ折り返し 「亡くなりました」 との訃報が入り、目の前が真っ暗になりました。
二人の将来の試金石となったあの大陸横断の旅を知る唯一の友を失ってしまったのです。
王 志異 さん (Mr.C,E,WANG)
本当にありがとう、そしてさようなら… 合掌
(イギリス編 1 へ)
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